ゆかりの地巡り4〜松風村雨堂

「立ち別れ いなばの山の 嶺に生ふる まつとしきかば 今かえりこむ」

(16番)

 神戸市須磨区に松風村雨堂という小さな史跡があります。

 上の地図でわかるように、敷地は決して広くありません。南側から、徒歩で近づいて行きました。この歩道沿いには、松が植えられています。そういえば、松が街路樹に植えられているのは、珍しいことかも知れません。

 

 下の写真は、踏切で待っているところです。まだ見えてきません。

 踏切を渡ると、予想以上にすぐ到着しました。

 踏み入れようとすると、あれ?普通に民家!?住人がいつ出てきてもおかしくない感じ。不思議な感じがします。

 予習をしてから来たせいなのか、下写真の説明を読んでも、すぐに理解できました。いや、この文章は、もともと誰にとっても、読みやすくわかりやすく書かれているのかも知れません。

 平安時代、在原行平(ありわらのゆきひら)が、文徳(もんとく)天皇の怒りを買い、謹慎として須磨に来た時、2人の美人姉妹と出逢ったそうです。

 その美人姉妹と行平は、恋仲になりました。三年間の謹慎が解け、因幡の国への赴任することになり、行平は、2人の姉妹と別れを告げることになります。

 その際、この歌「立ち別れ〜」を送り、いつでも帰って来ます、と約束をしたものの、その後再会することはなかった、、、ということです。

※一般的には、「立ち別れ」の歌は、855年、因幡国に赴任する際に詠んだ歌だとされています。


👉詳しくは、こちらの記事参照。

 こちらの看板には、2人の姉妹のために、行平自ら「磯馴松」を植えたと書いています。

 下の写真は、敷地内の南側から北側を向いた様子です。

 ちなみに、下の写真に見えている、真ん中のお堂が観音堂、右が供養塔です。

 3つあるお堂の残り一つ、左のお堂の中には、松の根元部分が祀られていました。これが、「磯馴松」だそうです。セミの抜け殻がくっついていました!☺️

 「松風」と「村雨」(行平に名付けられた)という名前の2人の姉妹(本名は「もしほ」と「こふじ」)は、行平の帰りを信じて、庵で待ち続けたそうです。その庵の跡が、この「松風村雨堂」だということです。

 入り口にあった石碑を再び見ると、「立ち別れ〜」の歌を確認できます。ああ、在原行平が、この須磨の地を訪れたのは、伝説ではなく、実話だったのかも知れない、と思えるようになってきました。

 石碑の左側面には、「昭和十六年七月建立」と刻まれていました。

 少し離れた場所ですが、松風村雨堂の北西の方向に、鏡の井があります。これは、2人の姉妹にとっての姿見の井だったそうです。お墓も近所にあるそうです。

 また機会があったら、再びこの地を訪れようと思います。

👉鏡の井に行ってきました!


 今回、私が疑問に思ったのは、「なぜ在原行平は、2人の姉妹と再会しようとしなかったのだろうか?」ということです。いや、再会しようと、再びこの地を訪れたのかも知れません。

 しかし、携帯電話もなく、連絡を取り合えない時代の話です。2人の姉妹は、実家のある多井畑に戻ったとのことなので、巡り会えなかったのだと思えてきました。そう考えると、会いたい時にすぐ会える!または、声を聞くことができる!そんな今の時代が、「恵まれている」と思えてきました。


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