「たち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む」
(16番)
近くの多井畑厄除け八幡宮に、車を止めて、お参りをさせてもらいました。ここには、在原行平も、お参りに来たことがあるそうです。
信号を渡って、すぐのところに、案内の表示があります。見えるでしょうか?
少し下がると分かりますが、本当に民家の間にあります。というか、この井戸も、この民家の庭の一部、という感じでした。
下の記念碑に書いてあるのですが、在原行平が須磨に来たのは、本当に「光孝天皇の時」「886年」なのでしょうか?
Wikipediaやその他のHPには、「文徳天皇の時」となっています。しかも、「850年ごろ」となっています。どちらが、真実なのか謎となりました…
ほんの100mほど北北西に歩くと、墓がありました。
ここの記念碑にも、同じように書いていました。真実はいかに?
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