【100番】承久の乱に敗れ父・後鳥羽院と別の島に流された!!順徳院!!


ジャンル:他
時代:鎌倉時代 
超要約:古きを偲ぶ

歌の意味(子ども向け):昔はにぎやかだったのに、さびれてしまった・・・

歌の意味:宮中の古びた軒から下がっている忍ぶ草を見ていても、しのんでもしのびつくせないほど思い慕われてくるのは、古きよき時代のことだよ。

☟この首に関するクイズ

Q 作者順徳院は、99番の作者後鳥羽院と、どのような関係か?
①親子
②親戚
③友達

A ①

👇語呂合わせ(覚え方)



 作者の順徳院が、天皇の位にあった20歳の時に詠まれた歌です。武家の力が強くなり、政情が不安定になってきた時期に、朝廷の現状を嘆き、もう一度力を取り戻したいという若い天皇の気持ちが伝わってきます。

 「ももしき」とは「宮中」という意味です。「しのぶ」には、「偲ぶ(昔を恋い慕う)」と「忍ぶ草(家の軒下や木の幹に生えるシダ植物の一種)」を掛けています。

 作者の順徳院(じゅんとくいん)は、第84代天皇です。後鳥羽院(99番)の第3皇子でした。14歳で即位し、25歳で天皇の位を退きました。1221年、承久の乱に加わって敗れ、父である後鳥羽院(99番)は隠岐島に、子である順徳院は佐渡島に流されました。都に帰る望みもかなわず、絶食してやせ衰え、21年後、その地で亡くなりました。父の後鳥羽院と同じく歌の名手で歌学書「八雲御抄(やくもみしょう)」を残しています。

 後鳥羽院は全国の武士に「鎌倉幕府討つべし」の命を発しましたが、集まったのは1万7千騎(西軍)。対する幕府側(東軍)は19万騎を集めて京に攻め上ります。東西の軍がぶつかったのは木曽川でしたが、多勢に無勢。西軍は蹴散らされ、その後も敗戦に続く敗戦で勝負は簡単に決し、敗北した後鳥羽院と順徳院は新潟県佐渡島へ流され、そこで一生を送ることになります。この歌は、順徳院が20歳の時に詠んだ歌ですが、まだ承久の乱に至る前。貴族の没落をこの帝が深く悲しんでいたことが伺えます。貴族の没落は、長く続いた貴族の文化の終焉も意味しました。貴族文化の象徴たる和歌の集成、百人一首の最後に定家がこの歌をもってきたのはとても深い意味が感じられます。貴族文化とともに生きた定家もまた、同じ思いだったのでしょう。


 百人一首の1・2番が天皇の親子であることと対応して、99・100番でも天皇の親子の歌となっています。藤原定家(97番)が、百人一首のもとになる歌を選んだ時には、後鳥羽院と順徳院の歌はなく、後に定家の子孫が何らかのきっかけで入れ替えたのでは?と言われているそうです。このあたりの「なぞ」が、面白そうですね。

 佐渡の西側、真野には佐渡歴史伝説館があり、順徳院や日蓮、世阿弥などの配流後の生活や人となりを知ることができるでしょう。

 順徳院腰掛けの松も残されています。

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