「花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」
(9番)
2020年11月1日(日)、京都市にある補陀落寺(ふだらくじ)という所に行って来ました。
補陀洛寺は通称「小町寺」。この地は平安時代の歌人・小野小町の終焉地と伝えられています。
平安時代中期の945年清原深養父(ふかやぶ)が天台僧・延昌(えんしょう)を開山として迎えて補陀落寺を建立しました。深養父は官僚・歌人で、職を退いた後補陀落寺で隠棲しました。
この石碑にあるように、この寺は別名「こまちでら」といいます。
さらにと上っていくと、下の写真の奥に見えているのが、小野小町のお墓です。
上写真の左側には、深草少将の墓「宝篋印塔」があります。深草少将とは、良岑宗貞のことで、後に出家して僧正遍照と呼ばれました。
同じ六歌仙だった小野小町との恋愛は有名で、小町伝説の中には、こんな話もあります。深草少将は、小野小町が地方へ下った後も恋するあまり、官職をなげうって小町の住処へ出向きます。小野小町は疱瘡を病んでいたために治るまでの時間稼ぎとして、「もし私に会いたいなら、毎日私の庭に1本づつシャクヤクの花を植えてください。それが100本になったら、あなたとお会いしましょう」と告げます。そこで深草少将は毎日小町の家の門前に来て花を植えますが、ちょうど今日で100本というその日に嵐に遭い、少将は川に掛けた橋が崩れたため濁流に呑まれ、死んでしまったのでした。
以上の話は、実話ではなく伝説だと考えられています。実際の僧正遍照は出家しており、若い頃亡くなったわけではないからです。しかし、似たような話はあったのかなと思います。
後に西行がこの地を訪れたとき、小町の髑髏からはススキが生え、亡霊は「秋風の吹くにつけてもあなめあなめの小野とはいはじ芒生ひたり」と詠んだとされます。供養塔は、鎌倉時代後期作で、初層塔身に四方仏の薬師、釈迦、弥陀、弥勒が彫られています。
小野小町の供養塔から、来た道を見下ろすと、こんな感じです。
ところで、寺名の「補陀落」とは、インドのはるか南方の海上にあり、観音菩薩が降り立ったとされる伝説の山です。
本堂には、本尊の隣に鎌倉時代作の「小野小町老婆像」が祀られています。痩せ衰えて右手に杖を持った小町80歳の姿だそうです。今回私は、見ることはしませんでした。次回、訪れた時には、ぜひ見たいと思います。
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