【53番】蜻蛉日記の作者!!右大将道綱母!!


ジャンル:恋
時代:平安時代 
超要約:朝まで独り

歌の意味(子ども向け):待つのって、ほんとにつらいのよ!わかってるの?
歌の意味:嘆きながら、一人で孤独に寝ている夜が明けるまでの時間がどれだけ長いかご存じでしょうか? ご存じないでしょうね。

☟この首に関するクイズ

Q 百人一首が詠まれていた平安時代は、夫婦はいっしょに住んでいた。〇か✖か?

A ✖
 夫は妻の住んでいる家(やしき)を夜たずね、朝帰るという、 「通い婚(かよいこん)」が普通。
 デートも、昼間男女が会うことはなく、夜に彼女の家を訪ねるのが普通だった。
👇語呂合わせ(覚え方)


 当時は、結婚生活といえども、男女はいっしょに暮らしていませんでした。夫が妻の家へ通うという形でしたが、他の女性の所へ通うといったこともあったようです。

 この歌は、自分のもとを久しぶりにおとずれた夫に、日ごろ一人で寝ているわびしさをうったえた歌です。自らの結婚生活を回想した「蜻蛉(かげろう)日記」によると、一子(いっし)・道綱が生まれて二か月後、夫の藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が、町の小路(こうじ)の女に通い始めたことを知った作者は、門を開けることなく、おとずれた夫を帰してしまいました。その翌朝、兼家に色のうつり変わった菊(うつろひたる菊)にそえて送った歌が、この一首です。当時の女性たちの嘆きが伝わってくる歌です。

 作者の右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)は、藤原兼家(ふじわらのかねいえ)との間に、道綱という一子をもうけました。その息子の地位の名前から、「右大将道綱母」と呼ばれました。「本朝三美人(ほんちょうさんびじん)」の一人と言われるほど、美人だったらしく、歌人としても名高い人でした。夫婦生活を始め、悩みのつきない女の半生を描いた「蜻蛉日記」の作者としても有名です。この「蜻蛉日記」は、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えているそうです。何があったのでしょうね!?

 ちなみに、「本朝三美人」とは、1.右大将藤原道綱母 2.衣通姫(そとおりひめ) 3.光明皇后とされています。また、「日本三大美人」とは、右大将藤原道綱母・衣通姫・小野小町だそうです。


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